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社長の生い立ち4

東京に別れを告げて帰広

 広島には1994年(平成6年)の2月に東京の会社を円満退職してから帰って来ました。その頃母は広島市中区中町の賃貸マンションに姉と一緒に住んでおり、家賃も10万円支払っていました。

それは母が夜からスナックで働いている事が理由でしたが、姉も会社からその賃貸マンションが近いので、そこに住んでいたのです。私はそこの和室6畳間を借りて、新しい就職先を探さなければなりませんでした

当時はバブル経済がはじけて経済不況の真っただ中です。特にソフトウエア会社の新規雇用は全くと言っていいほど0に近く、縁故(コネ)でもない限り中途採用の道はありません。私は3月、4月と就職活動をしながら、「もう職種なんて選んでいられない。何でもいいから就職するぞ!!」と腹をくくりました。

運命の分かれ道

 バブル崩壊の荒波をもろに喰らいながら、毎日ハローワークに足を運んでいると、姉から連絡があり、「私が勤めている不動産会社の部長に面接の段取りをしたから来る様に」との内容でした。

まさかの営業職で、私が避けて来た職種でもありました。「今からやった事の無い営業職なんて、出来ないよ」と一度は思ったのですが、ここは姉の顔を立てて面接だけは受けようと腹を決め、面接会場に行きました。

 応接室では部長と次長が待っており、色々と話をしてくれましたが、結果として3ヶ月の試採用が決まり、私の営業マンとしての人生が始まる事になりました。「これは結果として、縁故(コネ)入社になるのかな?」と一度は考えたのですが、後年その部長に話を聞いた時に、「3ヶ月で辞めると思ったが、とりあえず使ってみるか」という気持ちだったそうです。

それから約11年半という長い年月をその会社で過ごすのですが、正直な所、この会社と出会った事が私にとって現在の不動産事業と深く関わる原点となり、様々な人脈もこの時に多く生まれました。

努力に勝る天才なし

 私が就職した会社は広島のKハウジングという住宅会社ですが、平成6年からの10年間は広島市内でかなり手広く分譲住宅用地や注文住宅の建築を行っていました。私も当初は注文住宅事業部に配属されたのですが、途中から分譲マンション事業部に配属が変わり、中国地方全域に分譲マンションを供給する仕事を受け持ちました。

最終的にはエンドユーザーであるファミリー層が相手であり、結果として新築分譲マンションを数多く販売する事になりました。その時に出会ったお客様からは今でも年賀状を頂いたりしていますが、「お客様に物を売る」という私が子供時代に培った商売の原点が、住宅営業の世界でも非常に役立ったという事は疑いの無い事実でした。

 不動産業界に中途入社で入った私ですが、入社当初は28歳の新人という立場でしたので、とにかく毎日勉強漬けの日々でした。重要事項の説明をする為に必要な宅地建物取引主任者(現在の宅地建物取引士)も懸命に勉強して3回目で合格。やっと他の営業マンと肩を並べる立場になり、マンション管理士、管理業務主任者などの関連資格も取得しました。

 私は生来器用な人間ではありませんが、「あきらめずにやり続ける」事だけは自信がありました。昔から往生際の悪さというか、あきらめの悪さには自信がありましたので、勉強についても負けず嫌いの性格が人生を良い方角に向かわせてくれたのかも知れません。結果としてKハウジングには11年半の長きにわたり営業マンとして活躍させて頂きました。

(社長の生い立ち5につづく)