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社長の生い立ち3

おまえは大学に行きなさい

 (前回のつづき)

「え。大学ですか?」私はそれまで大学のだの字も考えていなかったので、担任の先生からの話に少し戸惑いを覚えました。「でも受験勉強してないし、大学に行くお金もありませんし...」先生と色々な話をしていく中で、「来年から新しく大学の夜間部が開校するから、県工から初めての挑戦になるが、受けてみなさい」との事。先生はウチが苦しい家計だという事は分かった上で、苦労している事は承知で受験を勧めてこられたのです。

「お前なら中電に入る事は出来るよ。でもお前にはもう少し学業を学んで欲しいと思う、お前にはそれが出来る筈だ。」先生は私がいつもアルバイトをしながら勉強してきた事を見てくれており、あえて夜間部への受験を勧めてくれたのです。

 私は先生に「出来るだけの事をやってみます」と言いました。そして1か月後に受験をし、何とか合格する事が出来ました。その学校は今は名称が山口大学工学部2部電気工学科となっていますが、当時はまだ短期大学部しかなく、名称も山口大学工業短期大学部電気工学科と言いました。

ホントに苦学生だった3年間

 大学時代はホントに苦学生を地で行く感じでした。「生まれてから今まで18年間、そして19年目の今この時に、オレはどこに居るんだろう...」もちろんハローワークです。

何かいいアルバイト先は無いかを募集要項が書かれたファイルを持ってきては閉じ、別のファイルを見ては閉じました。最初の1年間はそれこそ鉄筋工や青果市場からスーパーへのトラック運転手、一日アルバイトのアンケート取り要員にもなり、交通整理の警備員も工事のお兄ちゃんから罵声を浴びながら経験しました。

夏休みには実家に帰るのですが、長期休みのたびに毎年お世話になっている日本貨物検数協会(JCTC)で海外輸出用マツダ車の数を検数するアルバイトを広島の大学生と一緒にしました。そして山口宇部空港での調理師補助アルバイトを2年生の時に経験し、ここはコックさんから頭をこつかれたり、先輩アルバイトからいじめられたりしながら大学卒業まで本当に苦労して続けました。

 ですから3年生(卒業年度)の12月に就職で東京のプログラミング会社が決まった時にも、先輩コックから「お前はここに就職決定だー」と脅されながら、卒業時には快く送別会まで開いてくれました。

「普通アルバイトにここまでせんぞー」と言われながら、勉強ももちろん苦しかったですが、本当に貴重な3年間の学生生活(半分社会人生活)を送る事ができました。

東京でのサラリーマン生活6年半で得たもの

 東京では就職先のT芝プロセスソフトウェア株式会社の電力第3課に所属し、主に東電配電システムの開発に携わりました。とは言っても私が担当したのは配電設備の停電が起こった時にどのように電力系統をつなぎ直すかという電力サブシステムの開発だったので、具体的な内容はあまり理解出来ませんでした。

その後は関西電力のデータベース作成や、様々な変電所のサブシステムを開発しましたが、本当に自分が企業人として何を社会にもたらしているのかという事は何一つ分かった気がしませんでした。

 気が付けば毎日の残業で疲れ果てて京王線に乗り、家路につく、そして次の朝を迎えてまた京王線で会社と独身寮を行き来する生活が数年続きました。もちろん会社での人間関係はとても良かったですし、仕事に打ち込む楽しさを感じた時期もありましたが、一方で仕事に対するやりがいをどうしても見出せずにいる自分が居て物足りなさ、空虚さを感じていました。

父が膀胱がんに...

 東京での生活も6年目を迎えたある日、広島の姉から私宛に電話がかかってきました。内容は「父が膀胱がんになって大変」というものでした。私は驚きを感じながら「今の仕事を外す事は出来ないが、とりあえず広島に帰るから」と言って週末に広島に帰りました。父は病院の一室に入院しており、思いの他元気そうでした。そして「医者にライターを取り上げられた」事を話したと同時に、「タバコを止めないと死ぬよ」と言われた事も話してくれました。母に聞いた所、「この病院の入院費もどうやって支払うのか全然考えていない」と怒っていました。

私は「本当に能天気なオヤジだなー」と半ばあきれながらも、「これは広島に戻れという事なのかもしれない」と本気で思いました。このままでは母が気疲れで本当に大変な状態になってしまうかもしれないと思ったからです。

(社長の生い立ち4につづく)