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社長の生い立ち1

サンワコーポレーション株式会社代表の脇坂です。

こんにちは、サンワコーポレーション株式会社代表の脇坂亮作です。私は広島生まれの広島育ち、生粋の広島人として生きてきました。昭和41年生まれの57歳ふたご座です。

私がサンワコーポレーション株式会社の社長となって今年で16年目となりますが、ここでは私が生まれてから今までに至る道のりをお話ししたいと思います。

 私の子供時代は良く引越をした覚えがあり、父の車好きな趣味もあって、良くドライブに連れて行ってもらった記憶があります。黄金山という広島市南区の中では一番高い山の山頂にドライブした時は、レストハウス(今は解体されて展望台になってます)でお子様ランチを食べさせてもらった事が今も脳裏に強く残っており、家族の想い出の中で広島という街の良さを多く体験させて貰いました。

昭和40年代の父は、酒の卸売会社の部長から独立して酒販売会社を経営しており、不動産業の経営もする など、当時としては多角的な経営をしていました。その頃は父の頑張りのおかげで我が家は経済的にも恵まれた方だったと思いますし、幼稚園の頃は父がバザーに広島グランドホテルのシェフを連れてきてカレーライスを子供たちにふるまうなど、今の時代を見回してもそんな事する人居るのかな、と思う位に豪放磊落(ごうほうらいらく)な人だったと思います。

 

 私は小学校時代に良く観音本町の酒屋に連れて行って貰い、自動販売機の缶ジュースや缶ビール、当時流行っていたワンカップ大関というお酒の自販機補給を手伝ったり、店内の清掃からお客様におつまみの販売レジ係、ショーケースのお酒展示など、ほとんど酒屋の丁稚奉公をしながら家業を手伝い、たまにごほうびとして昼ご飯や晩ご飯に喫茶店やレストランに連れて行ってもらって美味しいごはんを食べさせてもらっていました。今思えばこれが私が物を売る「商売」と初めて接点を持った時だったと思います。

 

「商売」って大変だなと感じた少年時代

 父の商売は私が小学校5年生の頃までは比較的順調だったみたいなんですが、ある時から急に事業の状態が悪くなっている事に気づきました。まあ、小学生が気付くんですから大体どんな状態なのか見当が付くかと思うのですが、当時の父は酒の並行輸入で洋酒を大量に安く仕入れて売ろうと考えていた様で、東京の大手商社の部長からこの話を持ち掛けられて「人生最大の勝負」に打って出た様です。

父から聞いた話によれば、その当時父が保有していた土地や建物などの不動産、酒屋の販売権などを全て担保に入れて約6000万円位かき集めたそうです。そしてその結果、大手商社の部長が雲隠れして父は初めて「オレ、騙された」と気づいたのです。この商社元部長は後日逮捕されましたが、これは大きな事件として新聞にも掲載された様です。一番大きく騙されたのは四国の自営業者で、当時のお金で約1億円との事でしたが、父はその次に大きな被害者でした。

 

 

なんでタンスにお札を貼るの?

 洋酒の並行輸入サギ事件の後に、我が家には確実におかしな波が押し寄せていました。うちは広島市南区の一戸建てだったのですが、ある日の朝玄関のチャイムが「ピンポーン、ピンポーン」と何回か鳴り、母が玄関の引き戸をカラガラと開けると、そこにはスーツ姿のおじさんが何人か居ました。「こんな朝早くからうちに訪ねて来るなんて、一体誰だろう?」と考えていましたが、後からおばあちゃんに話を聞くと、「この家から引っ越さないといけない」と言われたので、今日は家の中の財産(お金)になるものがあるかどうかを調べに来たという事が分かりました。

 おじさん達は、家の中にあるタンスやテレビ、机などありとあらゆるものに赤いお札を貼ってから我が家を後にしました。この赤いお札を俗に「赤札」と言うのですが、要するに借金のカタ(代物弁済の品物)に持っていく物リストの様なものです。この日を境に、我が家の生活はスモール・アンド・プアなものになっていきました。

(社長の生い立ち2につづく)