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社長の生い立ち2

父が失踪、母子家庭のように…

(前回のつづき)

 あれから異変を感じたのは、詐欺事件から何日経っても父が家に帰って来ない事でした。母も色々な場所に連絡して、父の所在を探している様でしたが、なかなか見つからず困った状態に。結局母が今住んでいる家に代わる借家を見つけて、中学・高校生時代の数年間はそこで過ごしました。

 中学生から高校3年生までは本当に貧乏だった記憶が多いです。中学生時代は朝は4時半に起きて新聞配達をしてから家に帰り、学校へ。夕方には初めの頃はクラブ活動などもしていましたが、体力的にキツいのと、夕刊配達もやっていたので、家計の為に勉強も中途半端な状態で、中学生でもアルバイト出来る事は色々と探してやっていました。

 ですから高校受験勉強も苦しかった記憶があります。家計を何とかしたいと思う一心で、公立の工業高校を受験する事を決意し、当時の成績で行ける高校を先生に聞いた所、「県工の電気科なら受けてみるか?ここなら成績次第で中国電力に入れるから」という一言で、県工の電気科を受けて何とか合格したのでした。

高校時代に大好きだったサッカーをしたかったけどやっぱり...

 当時の広島県立広島工業高校(県工)は、とてもサッカーが強くて、本当に毎年高校サッカー選手権に出る強豪校でした。私も小学校からサッカーをしてきて中学校はバイトで途中挫折した記憶があり、高校に入ったらサッカーを楽しみたいと思ってサッカー部の入部届けを出したのですが、高校に入学しても貧乏との闘いはやはり続いていました。

クラブ活動は思いのほかキツかったのですが、その頃になると父が失踪から見つかり、細々と酒屋の販売をしている事が分かったので、私も高校1年の夏休みから観音の酒屋に父を手伝いに行く事にしました。クラブは苦しいながら楽しかったのですが、顧問の先生に理由を話して退部させて貰い、予定通り1年の夏休みからずっと酒屋の手伝いをしました。それからというもの、高校が終わると新聞配達の夕刊をさせてもらったり、学校の許可を得て夜にラーメン屋で働いたり、もちろん朝刊配達も高校3年生の終わりまでずっとしました。

新聞配達をしながら一番キツかった事は、夕刊を配る時に県工の職員室に夕刊を入れる配達エリアだった事でした。これは体力的にというよりも、精神的にキツかった事を覚えています。

 

担任の先生に挨拶しながら、夕刊を置いて自転車に乗った時、「みんなクラブとかしてるのに、オレ何やってんだろう...」あまりに辛くて泣きそうになった事は今でも思い出します。

 

高校3年生も終わりに近づくと、高校在学生の特別料金で自動車免許が取れるという事もあり、運転免許を取りに公認前の指定自動車学校に合宿で免許取得に行き、合格。卒業前に自動車免許を取れる事が確定し、(もちろん免許証は卒業まで先生に預けましたが)さあ、中国電力を受験する成績も取ってるし、絶対に就職するぞ!!と意気込んで担任の下へ進路相談に行くと、先生から予想外の言葉が出ました。

(社長の生い立ち3につづく)